ー本記事は2022年10月5日に公開済みですー
ピーチクパーチクと、早朝にけたたましく騒ぎ出す鳥たちのように、人だって時にはピーチクパーチクとやった方がいいのではないでしょうか?スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
女子が3人集まるとそこは結構な確率で井戸端会議場と化すことでしょう。
ゴミ出しで会ったご近所さんと、
園の送迎で顔を合わせるママさんと、
スーパーで偶然会った久しぶりの友達と、
挨拶だけで終わる場合と、そこから「あ、そうそう」という軽い一言によって30分コースに突入する場合、違いはなんだと思いますか?
それは波動・・・なわけある??
さて今回も自分を巡る思考の渦をとことんぐるぐると巻いていきましょう♪
人は本来喋りたい生き物である
他の動植物と人間の大きな違い、それは
「人間は言語を使ってコミュニケーションをする」
ということは大きいですよね。
もちろん動植物たちだって意思の疎通はしていますし、そんな動植物たちと言語以外のもので会話をしている人も存在するでしょう。
しかし、今現在私たちは言葉を介して自分の思いを伝え合うことが日常であり、便利で最も受け入れやすい方法ですよね。
そして人と話すことがもたらす癒し効果も確実にあると思います。
そうご市ではその効果も踏まえて、参加者の方が自分(の内側)を知りどういう道を行きたいか模索してもらえればいいなと思っています。
自分の思いを人に伝えることの爽快感
仕事がオフの日、友達と会ってランチしながら話に花を咲かせる。
やりますよね〜、そんでまたなぜか同じ職場の人と会ってたりね(笑)
でも実際同じ戦場で戦う戦友という感じで、仕事でのストレスをうまく発散できていた気もします。
今思えば、それはその場限りの発散であり爽快感なんですよね。
同じ悩みを共有できるから安心するし、職場での嫌なことをまたネタにできるというプラス思考にも働きます。
そんな堂々巡りの瞬発系発散システム、若気の至りなのかな…。
というか、戦場だからね、好きな事を選んでやってる仕事であったとしても上からの指示が幅を利かせる環境ですから、それはストレスありきの生活になってしまうでしょう。
しかし、ここで注目したいことはそういうことではなく、
人と会って喋ることで明らかに近々のストレスは解消されていた
という事実です。
話をただうんうんと聞いてもらうことで承認欲求が満たされる
誰しもいろんな欲望を抱えて生きていますね。
そして明確に意志を持って満たそうとしていない欲求もあると思うのです。
それが承認欲求ではないでしょうか。
食欲、性欲、睡眠欲、それらは否応なく行動に起こさないと始まらないことです。
しかし、承認欲求はどうでしょう?
「ちょっと承認欲求が湧いてきたからその辺のSNSでいいねもらってくるわ」
ってなります?
なんかハズって思いますよね。
ってことは、その欲求を意志を持ってちゃんと満たそうとすること自体に引け目を感じているということです。
だけど誰にでもある欲求なので、満たされないとどんどん溜まっていって自分を苦しめることになると思うのです。
だから、先ほどの「ちょっと・・・」というちょいハズ的行動で全然いいと思うんです。
だって「うんそうそう、分かるよ、いいね、いいね」って言われると単純に気持ちいいでしょ。満たされるでしょ。
反対に無視されたり「いや、そうじゃなくてこうちゃう?」とか「は?何言ってんの?」と返されたら?もやもやもやもや…ですよね。
まあ、SNSでいいねもらうことでどれくらい満たされるのかというと、それはバーチャルであるし顔の見えない交流でもあるので履き違えないように気をつけなければいけません。
私が思うに、そういう交流で満たされる承認欲求とは、そもそも外側の自分のそれでしょう。
その欲求が大きい(いいねが付かないともやもやする)人というのは、外側軸がどんどん強固になっているのではないかと思うのです。
はたして、あなたの承認欲求はちゃんと満たされていますか?私?そこね、SNSを毎日のように投稿している身としてはしっかり向き合うべきところですね。
会話の言葉で自分と合う人かどうかを検証している
例えば、SNSのいいね、よりももう少し踏み入った交流ができるチャットやDMでの会話はどうでしょう?
ただ一方的にいいねするだけの反応とは違い、その人対自分という相互の会話が成立しますよね。
ではそういったネット上でのおしゃべりとリアルでのおしゃべり、満たされ具合が同じだと考える人は少ないと思います。
この辺りは世代によって若干ズレがあるかもしれませんが、ある程度の年齢までネット上でのやり取りをせずリアルでの交流体験を自分の素地として築き上げている人なら当然上記の2つは別物と捉えられるでしょう。
言葉に自分の音を乗せて相手に響かせる、もしくは音が無理なら肌へ直接の接触で伝える、これこそが会話ですよね。
画面に映し出す言葉の陳列だけでは到底生み出せないコミュニケーションの醍醐味があると思います。
そして、何度もリアルな言葉をやり取りしていくうちに、だんだん相手のことを感じるようになります。
目で耳で肌で、その言葉の波がちゃんと自分に伝わるから相手のことが感じられるわけですよね。
もちろん会話中にいちいちそんなことを考えながら相手を見定めてはいないと思いますが、これは無意識の感覚というか言葉の裏を読む感覚というか、そういう第六感的なもので私たちは合う人、合わない人を感じているのではないでしょうか。
だから、言葉上では考え方が似ていたり趣味が同じだと判断できる人も、なんとなく気が合わないなと感じたりすることがあると思うのです。
それは会話を通してその言葉の裏?奥?に潜んでいるかもしれない何か、を人は普通に感じているからだと思いませんか?
そして、これこそが世に言う波動ってやつではないでしょうか?
あのなんだか目に見えなくて仰々しく扱われているっぽいアレ。
そう、波動ってそんなふうにいとも簡単に私たちは日常のありとあらゆるところで感じて使いこなしているのではないかと思い始めたのです。
そうご市でも話すことで内面を出していく
そうご市という特殊な「話す場」を設けてみて、やはり人は話すことによって明らかに変化を起こすとわかりました。
話す場なんてそのへんどこにでも落ちてますよ、それはもう無限というか相手さえいれば会話ができるわけですからね。
だからこその『そうご市』だったのか、と私自身が一番腑に落ちたのが先ほどから言っている
- 話すこと
- 波動で感じる
この2点についてです。
満たされない建前だらけの会話ではなくできるだけ本人が話したいだけ話して、とにかく出す、出す、出すを繰り返していくこと、それがまず基本ですよね。
別に出したいものなんてない、なんて人はいないと思うんです。
だけど、大事なことは波動が呼び合う「そうご市で出し合う」という点ですよね。
そうご市でのお喋りは承認欲求ではなく内側の自分を満たすため
明確な意図を持って徹底的に話をする、しかもそれはみんなの前で発表するとかいう外側意識のものではなく、自分でも出すことを躊躇うかもしれないような内側の自分と向き合いながらの話です。
これが具体的な毒出しですね。
その前に自分の内側の毒を認識するという作業もありますが、この辺りは書き出しだけでも余裕で出てくるでしょう(笑)
そうご市に来るという決断をされた方、しかも私自身がびっくりしてひっくり返りかけたほどの俊速で「行きます!」宣言をしてくださった方というのは、もはや波動の面はバッチリですね。
おそらく自分のこころに蓋をしていることを意識下か無意識下かはわかりませんが、確実に感じ取っているのだと思います。
今の自分が満たされていないという明確な思いがあるのではなく、なにか現実の生活の中でもやもやが消えない、あと一歩踏み出せない何かがあるなどの見過ごそうと思えば見過ごせるけどこのままでは嫌だという微細な内側からの伝達でもあるんですかねぇ。
そして、そういうものって承認欲求ごときが解消してもちびちびちびちびくすぶり続けるんですよねぇ。
「同情するなら客観視してくれ」
目の前で、自分の心に意識を送りながら、集中してもやもやを書き出したり言葉にして口に出したりしている人たちを前に、さて私は一体どんな対応をするべきでしょうか…。
- できる限り先入観を消してその人が発する言葉をしっかり聞く
- 同調はしても決して同情しない
- あくまでも本人が自分で本質に辿り着くように見守る
プロのカウンセラーであっても、とにかく聞くことに徹底することは大前提のようですね。
しかしそれは「うんうん、そうだね、分かる分かる辛かったね、よくがんばったね」と同情ばかりしていては先に進みません。その承認欲求の解消は求められてもいないでしょう。
同情でいちいち解毒を止めるのではなく、その人自身も私も客観視を心がけてこころのどの部分をどうやって整えるかに集中すべきだと思います。
結局は自分でしか自分を表に出せないのだし、自分の構築する言葉を感じながらまた自分を知っていくということはあると思うんです。
そういう作業をできるだけスムーズに、変な寄り道しないようにスススっと誘導できればとてもいいですよね。
だから、私という存在は実はいてもいなくてもそんなに重要なことではないのでしょう。
ただ、その人がスムーズに余計な力みなく自己探訪作業を行える空間の波動調整や背中押しのキーワードを、できるだけ的確に餅つきの合いの手のように施せるのが理想かもしれません。
自分のもやもやから派生する事を辿るから思いがけない事を話す羽目になる
そうご市という場が必要だと思って下さった方が、実際に話す瞬間になった時まずはここに来るきっかけとなったもやもやについて話し始めるでしょう。
それは日々嫌でも自覚できてしまっている悩みでしょうね。
しかし当然本質の種はそれではありません。
前回はできなかったのですが、その自覚のあるもやもやを軸として、そこから派生していく事柄をいろんな人の視線や話の中から生まれた言葉をヒントに、どんどん書きつなげていくという作業をしたいと思っています。
そうして3層4層くらいまで層を作っていってみると・・・、
あらあらまさかのこんなところに繋がっちゃった、なんてね。
結局はその自覚のなかった本質の種、これはおそらく相当しぶとい根っこが生えているでしょう。それを一気呵成にグイッと抜くのではなく時間をかけながら心地よく処理できるといいですよね。
さて、本質の種、それって本当に本人にとって要らないものだったのでしょうか?
きっとそんなことはないんですよね。
それに向き合うまでにちょっと時間と勇気が必要だったから、それまでは蓋をしていただけなんじゃないかな。
まとめ:話すことが苦手で一人時間大好きな私も気付けばベラベラ喋ってるそれがそうご市・・・
自分を含め、人が自分の本質を知っていく過程というものを見たい、その思いがそうご市発足には大きく影響しています。
思考が現実を創る、それがきちんと自覚できるのもまたそうご市なんですよね。
次から次へと波のように生まれては消えてゆく思考の渦。
あなたはその中のいくつを現実に創造しますか?
私のやるべきことはこんなちっぽけな事なんかじゃない!そんなふうに考えているということは自分の思考全てを否定している事につながります。
朝起きて自分で自分の布団を上げられた。
自分で自分の顔を洗えた。
自分で服を選んで着替えられた。
そういう当たり前の思考実現行動ができるあなたは、きっと自分の本質の種を見つけた後の人生が別物になっていくでしょうね。
そうご市であなたとピーチクパーチクできるのを待ってまーす♪
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