ー本記事は2022年9月22日に公開済みですー
現代に生きる私たちを悩ませる元凶って一体何だろうと考えた事はありませんか?
悩ませる、悩む、悩める、苦悩する・・・。
その元凶はおそらくたったふたつのことではないかと思い始めたのです。スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
この世に生まれて成長していく中で、人が悩み始めるのっていつでしょう?
苦しむというのとはまたちょっと違って、悩む。
今回も、心理学やカウンセリング術に関して素人の私が『そうご市』に向けてこころの解毒についてブラッシュアップしていきますよ!
人の悩みの元凶その1【自ら陥る比較地獄】
人が人であるかぎり、他人と自分を比較せずに生きることは相当に難しいことではないでしょうか。
そして、そうやって自分と他人を比べるからこそ生きられる、ということすらあると思うのです。
しかし、比較につきものなのはやはり自分を見失うことだとも思います。
比較なんてしないで自分の中をとことん追求してどんどん新しい発見をして楽しんで向上していけたらなんて幸せなことなのでしょう。
比較する癖、これはどのようにして生まれ、いかにして強固になり、気づけば自分の首を絞める凶器になっていくのか、ちょっと考えてみようと思います。
比較することで自分と他人の違いを見つける
いろんな人がいてこそ世界が多様な空気を纏える、そんな風に考えるととても清らかで素晴らしい世界が広がりそうですよね。
自分とあの人は違う、それは当たり前。
自分もあの人も絶対必要なこの世界の住人。
なのに、なんだか劣等感や優越感を抱いてしまう…。
なんでだろう?
そう考えさせられるようなものでこの世界が溢れてしまったので、そう考えてしまう方が自然なんです。
だけど、本来そんなこと考えなくていいんですよね。
他人を見て自分に気づき、
他人と比べて自分の個性を知り、
他人と接して自分の糧を得る、
そうやって自分軸で人を冷静に見、ただ見、じっと見、そして自分を知る。
それだけで生きていっていいんですよね。
小さい頃、大好きな友達と遊ぶ時間、無邪気で本当に楽しくていつまでもそうやって遊んでいたいと思いました。
それがいつしか、遊びよりも友達のことが気になってくることがあったと思うんです。
自分と違う人間の不思議さ、その存在が放つ言葉や態度への感情、それぞれの存在がまたそれぞれに違っていることの困惑。
「はー、なんかしんど」
ってなりませんか?
そうなる人、私はとても健全な人だと思うんです。
で、幼稚園や学校という他者がわんさか集う場所などに行くことがとても苦痛になる、これも健全。
健全なんだけど、これが人生で最初に味わう『悩ましい日々』序章だとも言えそうですね…。
あんなに他者のことがどうでもよかった幼い日々はもう戻りません。
そう、この禁断の鏡の、強烈な鏡の反射光をついに浴びてしまったあなた、ここからはこの残酷な鏡によって見なくていいもののオンパレードな日々となり得るのです。
違いは違いのままでいいのに競い合ってしまう心理
友達と自分の違いに気づくその前に、最も身近な人間と自分との違いにだって気づくはずですよね。
そう、家族という存在の。
赤子の頃の母子ぴったり蜜月期間にも終演は訪れます。
お母さんと自分、という大きな大きな分離を経験します。
ずっとくっついて全てを委ねて何も怖いものなんてなかった蜜月期間から、自分一人が主役の俺物語がスタートし始める分岐点、ここでうまく分離できて自分の道に自信を持って進むことができるのが理想っちゃ理想です。ま、かなりの確率で難しいですけどね。
離れてしまえばお母さんもひとの子、自分ストーリーに戻り始めますからね。
この戻り方をできるだけ緩やかにして分離の溝も徐々に徐々にゆーっくりと掘っていく、そうして子どもは自覚する間もなく気づけばお母さんなんていなくて平気!ってなる、いい感じですね〜。
育児ってこういう親の腕の見せ所、演じ所なシーンが結構あると思うんです。
ただ、初めての育児で全部わかる人なんていないですよ。自然にやりながらそういう流れを築いていける人はいるでしょうけどね。ほぼ無理と思って間違いないです。だから悩んでるんです。
次に身近な兄弟姉妹の存在を確認したら、そこからまた自分と他者との関係性を模索し始めますよね。
「違うな〜」
「なんでこんなに違うのかな〜」
「好きなところもあるけど嫌なところも多いな〜」
くらいなら苦悩なんてありません。しかし、そのうち
「なんでお母さんは妹ばっかり可愛がるの?」
「なんで私ばっかり怒られるの?」
「もしかしてお母さんは私のことが嫌いなん?」
という俺物語の暴走が始まるのは時間の問題ですね。
お母さんの愛情の奪い合い、と言っては大袈裟かもしれませんが、あの安心安全快適すぎる蜜月期間を知っているだけに、それを独り占めしたいみたいな感情が湧いても不思議ではないです。
そこで他者を貶めるための知恵や自分をよく見せるためのスキルを自分なりに習得していくことになるのかもしれません。
落ち着いて過ごす場所であるはずの家庭内で、なんだかとっても疲れそうな展開になってきましたね…。
SNSの普及により他人の生活が見え過ぎて比較地獄から抜けられない
しかし、家庭内でキーキーとお母さんの取り合いっこをしているなんてかわいいもんです。
成長とともに家庭よりも外の世界の方に刺激を求めて自分の居場所を探し始めると、そこから更なる比較地獄の始まりが待っているのです。
リアルに付き合う友達同士や先生、近所の大人たち、鏡の反射はどんどん強くなっていきます。
しかしまたその光は、中毒性のようなものでもあるのでしょうか、なぜかつい見たくなるという不思議な心理も働くと思うのです。
見たところで全部自分の中にあるものの投影かもしれないのに、自分より強く見えたり美しく見えたりしてなんだか自分がちっぽけな存在に感じてしまうという無駄な苦悩を生み出します。
物質が溢れ返り物質で価値を測る傾向が強い世の中で、本来その鏡に写すべきものではないどうでも良いものが強い光を放つのです。
これは相当消耗しますね。
もう家に帰ってぼーっとテレビを見続けていたくもなりますね。
これを日々繰り返し、自分の内側にある繊細で神秘的な心身の活動には目もくれず、なんだかこころがいつも大忙しになるのです。
さらに最近では小学生から始まるSNSの中での仮想俺物語。
今までは見えなかった他人様の家での様子や休日の過ごし方、細かいところでは食べたものや買ったもの、誰と何をしてどこへ行っているか、そんな自分の内側からしたら何の関係もないものを見ることに時間も感情も体力も奪われているのです。
これはもう内側からしたら地獄以外の何物でもないのです。
鏡だけがどんどん強烈なものを映し出して一見華やかそうに見えるめくるめく世界を投影し続けます。
実際それは自分ではないし何っの関係もありません。
でもそういう強烈な違いを自らが鏡に写すことによって無意識にダメージを与え続けているのです。
ここまで気づけたら、あとは鏡を一旦磨き直せばいいのではないでしょうか。
さて、磨いた鏡に映るのは一体どんなあなたでしょう?
人の悩みの元凶その2「俺物語になぜか親がちょくちょく登場」
心理学では超有名な話みたいですね。
母親の呪縛を抱えて生きてしまうことが人生うまくいかない理由、ってやつ。
その母親も母親の呪縛、その母親も、その母親も・・・。
あらまあ、これはどこまで続くのでしょうか。
たしかに一番近くにいる信頼の対象である母親、その母親が毒親でリスペクトなんて微塵もできないような人格だったらそれは子どもの人生にも影響はあるでしょう。
しかし、「母親のせい」にしていたら人生はどこまでも惨めなものになっていくのですよね。
俺物語に出てきて欲しくない母親はさっさとアップデートしちゃった方が得策です。
一番身近な女性像として全く憧れも尊敬もできない存在
“運”と言ってしまえば身もふたもない話ですが、この時代に立派な人格者として冷静に子育てができる親に当たる確率ってどんなもんでしょう?
おそらく・・・ほとんど・・・。そんな親に当たったら超ラッキーくらいでしょう。
だから、多少はみんな毒親だしこの時代の子育てはストレス過多なのはしょうがないとさえ私は思います。
ただ、母親と自分が分離した後にわりとスッキリ親との関係をリセットできた人はその後の人生でそれほど影響は受けないかもしれませんね。
反抗期などには自分の中にいる母親、それがまた鏡にくっきり映るから厄介なのです。
嫌いなところや軽蔑しているところがなぜか映し出されてしまうのです。なぜ?
見たいから、自分がね。
不思議ですよね、自分では見たくないと思ってるはずなのに見たいなんてね。
自分の俺物語に母親を登場させているのは紛れもなく自分自身なのです。
なんでだろう?
答えはシンプルかもしれません。
「母親とは慈悲深く愛情深い存在である」
「母親が子どもを愛さないわけがない」
「母親とは優しい存在でなければならない」
「母親とは最高の女性像の見本でなければならない」
「母親とは子どもを苦しめるような存在なわけない」
「母親を嫌うなんてあり得ない」
「母親と自分はどこか似ている」
そんな母親神話が絶対的意思を持ってのさばっているからです。お互いにおんぶに抱っことも言えるかも?
だからスッキリ決別して自分の中で抹消したいと思っているつもりなんだけど、しっかりと胸に深く刻み込んで消えなくしているのです。
嫌で見たくないと思えば思うほど、母親の尊敬できない部分が浮き彫りになるのです。
では、これはもう刺青のように消えないのでしょうか?
母親の俺物語をしっかり認めてあげよう
母親はこうあるべき、という謎の神話感、これが見えない糸になってしっかりとわたしたちを縛っているのではないでしょうか。
自分が親になるとよくわかるのですが、親だって人間、女神でも何でもないただのいち人間、それは同じように苦悩し悶絶することだってあるのです。
って、体験してわかっているはずなのに、やっぱりどこかに自分の母親は女神像みたいな心理がちょっとは残ってることに気づいて愕然としたりしませんか?
子どもを無条件で優しく受け止めて抱きしめていつでも味方で一緒に泣いて笑って、きれいで上品で誰に会わせても恥ずかしくない、そんな神話感、迷惑…。
押し付け迷惑ですね。
それを認めましょ。
迷惑被ってるのは母親の方かもしれない、だからハードルを下げてあげればいいんです。
いち人間であるただの女性、それが子どもを産んで育てている、それだけでも偉業です。
もしもその部分自体を否定している(産みたくて産んだわけじゃない云々)母親であっても、それでもやっぱり自分が産まれてきたルーツである母親、苦しいけれどそこは認める、に尽きるのではないかと思います。
もちろん自分の人生のために。
自分のルーツが毒毒の毒親だと認識したままの人生より、
自分のルーツはそれでも光であり感謝なのだと認めた先の人生、自分のためにはどっちが相応しいか、即答できるはずです。
母親にだって赤ちゃんの時があり、やっぱり同じように母親との蜜月があったのだろうと、想像してみると見えない糸を意外と簡単に切ることができるかもしれません。
結局お互い依存していたと気づけたらあとは鏡を拭いて俺の俺物語再スタート!
愛着、愛情、親密さ、信頼、安心、そういうなんともいえないお布団みたいな安らぎ、それを一番最初に与えてくれたのは紛れもなく母親ではないでしょうか。
そこに予期せぬ分離(本来の期間よりかなり早くに母と過ごす時間が奪われる)が訪れてしまうこともあるでしょう。
また、お布団も必要なくなる時期があるはずなのに、いつまでもせっせと被せてこられるとそれは安らぎでもなんでもなくゴミですよね。
母子って本当に深い関係ですね。
そしてそういうことこそ誰かが何となくでもいいから母親になる人たちに伝えていく、これが案外この腐った世界を変える近道なのではないかと思えてきます。
結局、分離したあとも両者が依存し合ってるんですね。
その依存をうまく解き放つことができるかどうか、そのタイミングがお互いにとってベストかどうか、それがその後の人生をガラリと変えるのではないでしょうか。
「大丈夫、俺は俺の足で歩いていけるよ」
「おめでとう、じゃ母は母で新しい物語を生きていくわね」
“獅子の子落とし”じゃないですが、野生の動物界では強烈な分離を行う種もありますね。
それって、実は生半可な分離だとその後お互いの依存が消えないと分かっていたりして…。
強烈な分離を起こす、そうすることで優しいお布団状態の母の記憶を持ちながら子は子でがむしゃらに自分の道を歩くしかない、そしてその美しい母の記憶がそのまま次の世代に受け継がれる、100%ではないにしても相当に効率の良い無駄に悩むこともない成長過程ですね。
現代社会に生きる私たち人間、そうはいかないのは重々承知、でもそういう理なんだということが少しでも腑に落ちたなら今の悶々とした悩みは即解決へと向かうと思いませんか?
最後にもうひとつの元凶とは・・・
他人と比較することで生まれるこころの揺れ、母親との関係性による共依存の悪影響、これが現代人の悩みの元凶だとしたら、比較をやめて母親を認めていくことが解決になるのがなんとなくわかりますね。
はい、自分では難しいならプロのカウンセリングを受けたりもできます。
でもね、私が強く思うのは
「カウンセリングを受けるほどではない」
「なんとなくうまくいかないこともあるけど、まあこんなもんかな」
と思っている人たちなんです。そう、いわゆる普通に暮らせてはいる人なんです。
鏡に布かけて見ないようにしながら、どんどん外の目新しいものへ意識を飛ばしていませんか?
もちろん不幸ではないしなんなら他人よりちょっと幸せ〜って思ってる、毎日ハッピ〜って思ってる外側世界ではねそのままでいい人もいるかもしれない。
だけどいつも内側で何かが引っかかってる感覚があるなら、ちょっとそれを確認してみませんか?
誰がなんと言おうと、全然華やかでも賑やかでも裕福でもなくても
「今日一日が本当に嬉しい幸せな日」
を毎日重ねるために一番大切なこと、それが実は
「時間を味方につける」
ってことだと思ってます。
余裕がないと人は・・・ですね。
変えたい、から、変える、にする方法なんて聞かなくてもわかりますよね。
では、そうご市でお待ちしてま〜す♪
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。
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