ー本記事は2021年9月30日に公開済みですー
私たちの生活、たった2年で大きく変わりましたね。
外に出れば顔の半分しか見せない人が9割以上になり、
人々の心の中には強弱はあれど『分断』を生み出しました。スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
あなたの生活はどんなふうに変わりましたか?
無意識のうちにどんどん変わっていっていて、一体2年前がどうだったか思い出せない人もいるかもしれませんね。
私の生活も変わりました。
子どもが3人いるのでそれに伴ういろんな制限、新しい生活様式の要求、考えの異なる家族や友人との距離感。しかしなんといっても一番大きな変化は自分自身の心模様です。
これが大きく大きく変容しました。
変容というのか、進歩というのか、エゴが膨らんだだけなのか、そのあたりを自問自答しながら、今回は私なりのコロナ騒動への思いをまとめていきたいと思います。
騒動がどこに繋がっているのか見えてしまった?
本当の本当のことなんて、一体誰がわかるのでしょうか?
この騒動がなんの計画性もなく本当に突発的に発生した怖い怖いウィルスによるもの、である可能性はゼロでしょうか?
それを証明できる人もいるかもしれませんが、一般庶民である私には無理です。
証明されたかもしれないものを提示するくらいです。
ただ、現時点で私はそんなに怖いウィルスの存在を身近に感じないし、2年前と空気感は何も変わらないと思っています。
(やたらと施されるアルコール消毒による菌ワールドの異変はあるかもですね)
なので、家では普通に生活できています。
何を怖がることもなく。
では思想について考えてみましょう。
存在証明がされていないウィルスと意味のない自粛やマスクに気づいた自分
COVID-19というウィルスを発見した、または分離に成功した、という発表は出された後になぜかすぐ削除されているようですね。
当初、私はこのウィルスに驚異を感じていました。
「なんかえらいもんが流行し始めた」
テレビやネットに流れるうわべの情報をさらっと受け入れていたので、マスクしてるだけでは不安、家からできるだけ出ないようにしよう、宅配便の荷物とかで感染しないかな…と真面目に思っていました。
当然ですよね、未知のものですから。
まず知らない間は警戒します。
ところがありがたいことに、毎日メディアで流される情報に答えがあったのです。
「おや?子どもたちは感染予防のために自粛してるのに、電車などの交通機関、国会、大手企業を含む多くの会社は布切れを口に当てるだけで普段と変わらず動いているよ」
「マスク姿の多くの人が密状態の電車を利用して日々移動している(それを止めてないのもおかしい)のに、感染者がそこまで増えないのはなぜ?」
そういう単純な疑問をきっかけに調べ始めて
「あ、これは茶番なのね」
という結論に至りました。
そこからは恐怖もなくなり、生活も元通り。
忖度マスクはまだしていましたが、私の中では早いうちにコロナが収束しました。
と同時に厄介なものが生まれたのも事実なんです…。
「なんでみんな茶番に付き合ってるの?」
という他者への感情です。
マスクしてる人を見下していない、と言ったら嘘になる
これが分断なのでしょうか。
気づいた私の方が正しい。
気づかず受け入れている人は勉強不足。
気づいているのに受け入れている人は重症。
つい最近まで自分の心の中にそのような感情がくすぶっていました。
自分が勝手に下した判断で他者を批判してますよね。
世間一般で認知されている絶対的な悪、例えばいじめや殺人、虐待や詐欺などに対しては大多数の人が正義を語ることができると思います。
しかし、そんな揺るぎない正義でさえ、当事者からしたらそうじゃないということもあるかもしれませんよね。
それくらい、他者への介入は容易ではないのです。
今回の騒動は、茶番に気付けている自分に酔ってしまうというちょっと受け入れ難い側面があると思うのです。
「いつマスク外すの?」「俺はまだ外せない」
私がそういう自分の側面に気づけたのは、先日の旦那との会話がきっかけです。
その数日前に私は、ワクチン接種をしようとしている人に手渡せるチラシを発注していました。
茶番を知っている自分が知らない人たちになんとか情報を伝えていくことが大切だと思っていました。
会社勤めの旦那は人目につくところでは必ずマスクをします。
世間体というものに縛られている自分の親のことを批判しているのに、その行為はそれと一緒じゃないかなと偉そうに指摘してしまったのです。
私自身ちょっと焦っていたのもありますね。
接種はしないと決めている人でもマスクを付けてしまっていると、それはもうその時点でコロナを受け入れていることになりますから。
するとこう返されました。
「今はみんながそうやって平穏を保とうとしている。それに合わせている。俺は現時点でマスクの弊害を語れない。自分で調べてないし手元にデータもないから証明できない。まあちょっとめんどくさいのもあるかな」
はい、いかがですか?
「いやいやいや、調べようよ。マスクしてたら低酸素になるし脳に良くないよ」
「マスクを付けてる方が不衛生だしウィルスなんて簡単に通り抜けるんだよ」
「これ以上そんなことやってたらもう外せなくなちゃうよ」
そんな反論をしたくなりますよね。
はい、私もこれに近いことをチクリと言い返しました。
でもね、反面ちょっと嬉しかったな。
なんの考えもなくただただ世間体を気にしてマスクをしているだけ、という感じでもなかったと知ることができたから。
さらに、マスクをしていない私について旦那があれこれ言ってくることは多分一度もなかったと思います。この会話での私の言い分にも終始穏やかに対応してくれていました。これって本当にすごいことですね。
人はそれぞれで葛藤しながら決断を下している。
それがはっきりと確認できた瞬間でした。
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他人の選択をとやかく言うか言わないか
私の中にもちゃんと分断が起こっていましたね。
もうこの分断、よくないですか?
今までもいろんな健康情報について、知っている自分がすごくて知らない人たちは勉強不足で劣っている。
小さな分断は常に自分の中に発生していたんでしょうね。
もうええかな。
今なすべきことは自分と向き合って自分と対話すること
コロナについていろんな活動をされている人も、能天気に受け入れて過ごしている人も、みんなそれぞれ自分で決めたことをしている。
正義か悪か誰かが決めることではない。
私が今なすべきことは、私という自己の感性を磨くことなのかなと思います。
コロナ禍であろうとなかろうと。
それは終わることのない作業であるし、やればやるだけ自分のことが理解でき、他者のことも気にならなくなると思うのです。
そうなったときの自分を取り巻く世界というのが、また素晴らしく生き生きと輝きだすのではないでしょうか。
コロナ、マスク、PCR、ワクチン、そういったことすら意識下におかない、今目の前にある自分の愛おしい生活を最優先に全力で生きる。
人生という限られた時間を使うのですから、それは愛おしいものに使いたいですよね。
私が望む生き方ってそういうものだなぁ、となんとなく思ったのです。
今気づいていない人もきっとそれぞれのカタチで答えを出す時が来る
自分に関わる人たちの命をなんとか救いたい、その思いはあります。
そのために必死になって情報を集めてわかりやすい内容にまとめ、なんとかそれを相手に伝えて考えを変えて欲しい、その願いは簡単には消えないでしょう。
しかし、その逆を考えてみてください。
「コロナってこんなに怖いんだよ、ちゃんと感染予防しないと大変なことになるよ」
と来られた時にどうでしょう?
“一蹴”ではないですか?
だってこちらにはそうではないデータがたくさんありますから。
ザ・イタチゴッコ。
こんなにも頑張って活動している人がたくさんいるのに、こんなにも頑張って人々を救おうとしている人がいるのに、街へ出れば顔の半分が見えない人だらけ・・・。
終わらないんです。
一人一人が自分と向き合ってたくさんの自問自答をし、それで導き出した答えを他者にも要求している時点で永久に終わりません。
自分の答えを自分自身でしっかりと抱き、そして後は自分が喜ぶことを重ねていく生き方をする。
難しいよ、という人もいるかもしれません。
生きていくためには働かないといけないし(一般論)、その会社が自分の考えと全く逆のポリシーで動いている場合などは本当にきついと思います。
だけど、その会社や結婚を選んだのは自分だし、もうなんか違うなと思ったのならそれ以外の道を探ることだってできますよね。
それをやるかやらないかも自分の決断ひとつです。
「子どもたちは守らなきゃ」から「子どもたちは大丈夫」へ
3人の子どもを持つ母親として、今はいろんなことをパラダイムシフトすべき時だと痛感しています。
私は外の社会で働いてはいないのでそういう制約はないのですが、子どもたちが通っている幼稚園や学校ではあれこれと新しい制約が課せられてきました。
これまでも先生と直接話してその制約を緩和してもらってきました。
自分で先生に説明して納得してもらうことがままならない幼稚園児の場合、それをやるのは私の役目だと思っていました。
「子どもたちの健康を守りたい」
その思いひとつです。
ここで先の結論を踏まえてみると、子どもにだって自分で決める権利があるしそうすべきだとなりますね。
子どもとしっかり対話をしてお互いを尊重するベース作り
自分で考えて何かを決める、そのためにはその材料となる情報やデータ収集は欠かせませんよね。
プラス自分の感情と体感、嫌な感じなのか良い感じなのか。
小学校高学年にもなるとそれらがほぼ自分で獲得できるかもしれません。
低年齢の子どもはどうでしょう?
危うい決断をしてしまうこともある?
親が決めてあげないとダメ?
その決断が大人たちとの対話や経験で導かれるとしたら、最後に決めるのは子ども自身であったとしても、なんとか命に対して健全な方向を見出せることは可能ではないでしょうか。
子どもたちを見ていて思うのは、子どもにとって今判断の大半を占めるのは「親」と「友達」の存在だと感じます。
親の思想と友達の様子、その間を行ったり来たりしながら子どもたちは一生懸命に考えて自分なりに決めて行動するはずです。
家庭での会話、大事ですね。
親が「自分が正義」圧を取り払い、フラットな気持ちで子どもと話をすることが望まれますね。
たとえ我が子がマスクをする、ワクチンを打つという決断をしても、それを尊重できるかどうか、今の時代に子どもを持つ親として生きている私たちにはちょっと過酷な現実ですが、それが人権であり人権の尊重なのかなと、いまさら思い始めています。
子どもたちは大丈夫と思えるように
自分の子ども以外の子どもたち、その子たちももちろん自分なりに考えて答えを出すはずですよね。
親がマスクしてワクチン接種をしているならそれが判断材料になるし、親がワクチン阻止を掲げて大きな運動に参加しているならそれが判断材料になります。
私はそれでいいと思うし、そこからだって気丈な思考をできる子たちもいるはずです。
親である私たちは私たちでこの世界を大いに楽しみ、「ああ、私の人生ってなんて素晴らしく愛おしいものだったことだろう」と思って幕を閉じたいものです。
バトンを受け継いだ子どもたちが創り出す世界に私たちはなんの口出しもできないのですから。
まとめ
私が子どもの頃、両親は完璧なテレビ信者でした。今もか。
当然私も超テレビっ子。
つい最近までテレビ好きでした。
そんな私がたどり着いた現状はこんな感じです。
小さい頃からテレビも見ないでなんの洗脳も受けずに育った人たちが羨ましいです。
しかし、人にはそれぞれの生きる道があります。
これぞ本質!これぞ真理!的なことが仮にあったとして、全員が全員そこに辿り着けるわけではないし、辿り着いちゃったらそれはそれで息苦しい人生が待っているかもしれません。
常に自分を見つめ直し、この世界に魂を預けた身としてそれなりの覚悟を持って謳歌したいですね。
もしまだ自分の心の中に鬱屈としたコロナやマスクやPCRやワクチンというものがのさばっているのであれば、さっさと取り払って自由に好きなことに夢中になってみるのもいいのではないでしょうか。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。