ー本記事は2018年11月16日に公開済みですー
私たち人間の祖先は700万年前に現れた猿です。
学校の授業でそう教えられてきた「進化論」ですが、これ信じます?
学校という「先生・教科書が絶対」の集団訓練所では信じるも信じないもなかったかもしれませんね。
よくできた理論ですし、全世界でそれがまかり通っているわけですから、そうなんやろ、って思うのが普通ですよね。
しかし、キリスト教の聖書では人間は神によって創造された「神の子」であるとされています。
どっち?
世界で堂々と謳われているこの2つの論理、全然真逆ですけどどっちが本当?
って考えたことあります?
これを考え出したら沼から抜け出せなくなるのでやめた方がいいですよ。
ただ、今回私はこの沼にハマってしまったので、この沼の中から自分なりに考えた事をお届けしたいと思います、スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
せっかく来て頂いたのに、こんな沼ですいません…。
お時間があれば少々お付き合い下さいね。
ダーウィンの時代と現代では環境が違いすぎる
いまや、『DNA』という人間の細胞の中の核にまで手を入れ、いろんな検査をしていろんな情報を得ることができる時代になりました。
今から200年前の、ダーウィンが生きた時代と現代では全く違う環境であることは誰でもわかることです。
ダーウィンが進化論の仮説を公開したのは1859年、この時のこの天才自然科学者の心中はどんなだったでしょうか。
ダーウィン本人も困惑していた
ダーウィンが唱えた「進化論」を簡単に説明してみると、
生き残りをかけた生存競争によって、強い生物が存続を可能にし、そのサイクルが今日まで続いている。
遺伝子的に非常に似通ったものを持っている個体でも、それらは全く別々の個体であるということ。
これらを柱としてひっくるめると、個体は徐々に進化して生き残りやすい種が残っていった、という「進化論」が成立するんですね。
ところが、これは人以外での話だとダーウィンも言及しているというのです。
ダーウィンはこの説を「仮説」として公開したと言います。
「将来確実な証拠が発見されることを期待して公開した」と…。
「仮説」が「定説」になっちゃたという恐ろしさ。
定説にした方が好都合な存在があったことを証明しているようなもんですね。
進化論は人間には当てはまらない?
ダーウィンは人に対して進化論の定義を明言していません。
むしろ、
あらゆる生物の中で、進化論に一番当てはまらないのは人間だ
と言っちゃってます。
自分自身の仮説はまだまだ完成しているわけではないし、わからない点もある。当然反論もあるだろう。
ダーウィンが偶然訪れたガラパゴス諸島で見た独自に進化した動物たち、これは神様がこの島だけのために創造したものであり得るか?それはとても不自然な創造ではないか?
そう考え、生物とは個々の利益を通して、その利益のために自然淘汰という選択をしながら独自に進化しているのではないかという発想を得たのもわかりますね。
ダーウィンが生きた時代に当たり前であった「神様による人間の創造」という概念を、真っ向から覆す発想は、世界全人口の約半数がキリスト教徒とイスラム教徒という状況下では、相当に衝撃的だったことは想像できますね。
根強い宗教感が進化論を称え、そして利用した
今の時代よりもはるかにキリスト教の経典が常識として受け入れられていた時代に、なぜそれと相反する論理である「進化論」が受け入れられていったのでしょうか。
それには2つの大きな潮流があったと思います。
1つは、神様によっても苦しみから逃れられなかった民衆。
この世を神様が創造し、人間をも神様が創ったのであれば、なぜこんなに苦しい思いをして生きなければならないのか、そうやって虐げられていた人たちにとって、「進化論」というのは一筋の光のようなものだったかもしれません。
偽善、抑圧、独裁、犯罪、戦争、などの苦しみで多くの人が命を落としてきました。それでも神を信じますか?という問いに出された答えは、NOであり進化論を信じるということであったのです。
もうひとつの理由は、神という存在を否定することによって成立する大きな利益があった。
神が人間という奇跡の存在をこの世に作り上げたとするキリスト教ですが、そのことによって、科学的なもの、物理的なものが否定されるという状況もあったのでしょう。
しかし、生物は独自に進化を遂げてきたのだという説を受け入れることによって、目に見えないものは信じ難い、信じるに値しないということがまかり通るようになります。
そして、医学界、科学界、そこに渦巻く資本や金融が、論理と証拠という絶対的なものさえあれば人を簡単に騙せるということに気付くのに時間はかかりませんよね。
大衆が進化論を信じるなら、それをうまく利用して利益を生み出そうと考えるのもまた人間です。
そして、今ではローマ法王が「神は万能でも創造主でもない」と演説する始末ですから。
科学が科学によって完全否定される
ダーウィンの進化論は、概念的な生命の誕生という大きなものを、自然科学で証明して否定しました。
それは、ダーウィン自身が相当な苦労をして世界中の生物を観察し研究した結果であり、また、それは真実であるかもしれません。
しかし、ダーウィンの時代の調査・研究と、現代における科学的な調査・研究ではもう桁違いであるというのは誰もが周知の事実です。
ロボットがはびこる世の中、遺伝子レベルで命を取り扱う世の中、世界を何者かが操っているかもしれない世の中、そんなことが可能な世界をもってして、ダーウィンが成し得なかった「人間に関する誕生」についての新たな研究がなされ、ある見解を導き出したのです。
突然変異は「進化」ではなく「退化」する
進化論での主な主張に、
生物は突然変異の積み重ねによって次第に複雑で高度な機能を持つ生物に進化してきた
とするものが軸にあります。
残念ながら、それは違います。
多くの科学者が指摘していますが、突然変異は進化をもたらすどころか、進化を妨害し、生命の存続を危機に追い込むものでしかありません。
これは生物における退化とい言っても過言ではないかもしれません。
猿からヒトへ、脳の容量が倍近くも変化するのという進化は「突然変異」どころでは起こせないのです。
【中間種】の化石はいまだに発見されていない
生物が下等なものから次第にヒトへと進化していったとするならば、単純に考えてその【中間型】の生物が化石として発見されるべきではないでしょうか。
今日世界中で、様々な種類のおびただしい数の化石が発掘されています。しかし、真に「中間種」であると認められている化石は1つもありません。
私たちがよく知る、ある種とある種までの進化の途中の種であるとする生物、「始祖鳥」ですが、これもまた中間種ではありません。ハッキリとしています。
なんと1977年にはすでに、アメリカの科学誌において、
「始祖鳥は中間型として失格しました」
と立派な烙印を押されているのです。
また、猿と人の中間型とされる「猿人」や「原人」においても、その化石は猿と人間の骨を合わせたものであったり、全くの猿の一種であり、過去に絶滅したであろう猿に近い、人間と何の関わりもない生物のものであると証明されています。
もちろん日本ではこのような情報は流されることがないでしょう。
そして、教科書の内容が書き換えられることもないでしょう。
インテリジェント・デザインでしかなし得ない奇跡
科学が進歩すればするほど、ダーウィンが唱え科学的に正しいと思われた進化論という説が、いかに摩訶不思議な説であるかが証明されていくという滑稽さ。
それほどまでに、私たち生きとし生けるものの存在とは奇跡なのです。
いやが応にもそれが証明されてしまっているのです。
インテリジェント・デザイン・・・
まあちょっと宗教の香りが漂いますが、科学を持ってしても、偶然的に生命が発生するとか、進化を経て人間になったという説は証明できないのです。
そして、統計的に考えて、偶然に起こり得る確率は天文学的という数字をはるかに超えたものであるのです。
地球の歴史と言われる30億40億という年月を持ってしても不可能なのです。
もうこれは、奇跡と言って片付けてしまわない限り、私たちには理解の範疇を超えているのではないでしょうか。
まとめ
で?
結局人間はどこから来たの?
答えが出ていませんねー。
あなたはどう考えますか?
「知性ある何か」の存在を知るからこそ、『聖書』におけるイエス・キリストが伝えられてきたのでしょうか?
地球とは、まさしく豊かで他の星から見たら摩訶不思議な奇跡の星なんでしょうか?
進化論を信じ始めた頃から、私たち人類は「虚無」というものに支配されていったのかもしれません。
進化していくということを前提に考えていたら、命に対して粗末になってしまう気がするのは私だけでしょうか。
どうせちょっとしたことで変わってしまう、また現代人のような進化した生物が新たに生まれてくる、などと考えると今を生きる意味とはなんなのか?そう考えてしまう人もいるかもしれません。
しかし、そんな悲観的で虚無的な世界がこの世の中ではないかもしれないのです。
そんなことを次回さらに掘り下げていきますので、よかったらもう少しこの沼地獄とお付き合いください。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。