ー本記事は2019年7月11日に公開済みですー
ADHDについての記事を書くというわけではないんですが、
この言葉、すごい勢いで浸透していますね、スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
ADHDだけでなく、発達障害という言葉もみんなの周知のものとなっている現代。
では、昔の人はどうだったのでしょう?
そもそもそういう資質の人が生まれにくい時代背景だったとか、
決定的な症状のガイドラインなどがなくうやむやだった、
周りの人のケアが上手でそういう人が生きやすかった、
など、いろいろ想像はできます。
しかし、現在においてもADHDの原因を統一する理論はひとつも存在しないとさえいわれているのです。
私はこれらの資質などについて詳しくないのですが、10人に1人は発達障害の傾向があるとみている専門家もいるとなれば、もはや触れにくいタブーな問題ではなく、とても身近な誰にでも心当たりの1つや2つはあるような問題と考える方が自然ですよね。
現に、自分自身においてもそんなことを考えないこともないなぁ、と思うのです。
度々使用不能になる私はADHDかどうか
誰もが一度はなにげなく考えたことがあるのではないでしょうか。
「私のこの性格って、もしかして発達障害(ADHD)?」
ということを。
私はあります。
自分が度々周りの人に迷惑をかけるほどに「使用不能」になることについて…。
病気とか怪我とか、そんなんじゃ全然なく、ある意味心は病んでいたかもしれない…
いつもやっている当たり前のことを、一切合切何もしたくなくなる日があるんです。
というか、「なんで私がアレもコレもしないといけないんだろう・・・」
という悲惨な思考になるんです。
主婦あるあるじゃないですか!?え!ない?
家事や育児ノータッチという暴挙
これは女性特有のバイオリズムという問題も秘めているとは思いますが、先日も「使用不能」スイッチが見事に〈ON〉されたのです。
前の夜(休日)から、
- 私が声かけしないと子供たちが動かない
- 旦那は夜遅くのジム通いのせいなのかお疲れモード
- やってもやっても時間が足りない私のパソコン作業
そんなことが徐々に心に引っ掛かりつつあったのです。
それでも普段なら、気にしながらもいちいち引っ掛けずにスルーできるのですが、この時はおそらく逆に、普段は正常に起動している何か大元のスイッチを〈OFF〉にしたんでしょうね。
朝起きてからも、なんかみんなが「私待ち」みたいな空気のなか、私は「ノータッチ」を決め込んでしまったのです。
家族からしてみれば「何が起こったんや!?」ですよね。
まだ大声で怒鳴って喧嘩上等になってしまった方がいいですよね。
しかし「私がやらないといけないという決まりはないでしょ」みたいな思考になっているので、自分がやっていることを客観視できないんです。
家族という甘えられる存在に対しての確信犯
発達障害やADHDという診断を受ける人の傾向として、空気が読めないとか、相手の気持ちを思いやることが苦手とかありますよね。
まさにこれが頭をよぎりますよね。
しかし、実際にはちゃんと自分がこうなっている原因のようなものもわかっているんです。
「たまには自分一人のために時間を使いたい」
という思いがあるのです。
朝の目覚めとともに始まる「家族のための食事づくり」、たまにはノータッチでお願いしたいなぁ。
それを、家族に伝える前にひとりで勝手にスイッチングする、これはいけませんねー。
さらに、こんな暴挙をやってのける私って実は発達障害なのでは?なんて考えることは完全に逃げではないかと思うのです。
発達障害という逃げ道
ADHDや発達障害の原因となるものが一体なんなのか、それについても諸説いろいろ飛び交っていますね。
最近有力になってきたのは、遺伝要因ではなく環境要因の方が確定的だという説です。
血筋が全く関係ないとはいえませんが、その生活を構成している環境や体に取り込んできた物質などが、DNA突然変異を引き起こしているというのです。
確かに、2005年に「発達障害者支援法」が施行されたといいますから、戦後のいろんな影響やら高度経済成長の影響やら、そういうものが徐々に私たちの大事なホルモンを侵していったとしても不思議はないですね。
でも、なんだか最近の風潮みたいになっていませんか?
私のように「もしかして私も・・・」って思うことが。
いや、きっと、多かれ少なかれ今を生きている人たちの脳内ホルモンや神経伝達回路は、異常値を発しているのかもしれません。
発達障害、ADHDと診断された人たちが特別なのではなく、1億総精神不安定なのかもしれません。
私の件についても、あるものを捨て去り、あるものを絞り出して言動することができていれば、こんなややこしい話になっていないのですから・・・。
ADHDではなくほんの少しの勇気が出ないだけ
もちろん、自分の意思や力ではどうすることもできない「病」として、治療を必要とする精神疾患はあると思います。
しかし、その治療も最終的には現代社会の枠にはめようとする傾向がなきにしもあらずではないでしょうか。
むしろ、コミュニケーション障害などといわれるADHDやアスペルガー症候群と診断される人たちは、歪みのないピュアな軸が強固なだけに、現代の歪んだ社会では生きづらいし特別視されてしまうのかもしれません。
では、冷静に見て私の「使用不能」はどうなのか?
これは、いろんな勇気がちょっとずつ足りないただのチキン野郎なのではないでしょうか。
【プライド】という害毒を捨てる勇気
普段から、これを言ったらどう思われるかとか、こう言ったら傷つくかなとか、
一生懸命考えてしまう人に限って、そのストレスが蓄積した時のスイッチングが瞬速で切り替わってしまうのではないでしょうか。
そうやって考えてしまうという裏には、
「いい人に思われたい」
という欲求が少なからずありますよね。
できればこんなわがままなこと言いたくない、でも気持ちはそう願っている、そんなときあなたならどうしますか?
- 自分の気持ちを素直に冷静に相手に伝える
- どうしても言い出せなくて我慢してしまう
- 素直に言えないし我慢もできなくて人に当たる
- 自分の気持ちに気付いてくれない相手に暴言を吐いてしまう
- 暴言も吐けず一人の殻に閉じこもる
⒈以外はあるものに執着してしまっているのがわかりますか?
そう「プライド」です。
これ、ゴミみたいなものなのに、なっかなか捨てられないですよね。
私もこれをしっかり保有しておりました…。
人生がうまくいかないのは、これをしっかりと保持して捨てることができないからだといえるくらい「いらないもの」なんですが。
これを実行するための「ほんの少しの勇気」、これは誰もが持っているはずなのです。
相手の気持ちを思いやる勇気
健全な心で、自分の誤った言動を俯瞰してみると、それはそれはひどいもんです。
それされたらどう思う?
って言ってやりたくなります。
そう、分かっているんです、ちゃんと。
でもその時はどうしても相手の気持ちを、優しい心で思いやることができないのです。
そこに「ほんの少しの勇気」をふりしぼって、相手がどんな気持ちになるか考えられると、自分も相手も全く違う気分を味わうことができるはずなんです。
自分が楽しむという勇気
日々の生活で、何気なく見過ごしている「無理」が少しずつたまった時が、一番冷静でいられなくなるような気がします。
そのときそのときの「無理」を完全にゼロにはできないかもしれませんが、そのささいな「無理」に振り回されないくらい、自分自身が楽しんでワクワクすることを意識することも大事ですね。
あなたはあなたを楽しめばいいんです。
〜しないといけない、自分がやらないといけない、というこだわりが捨てきれずにいると、自分だけでなく周りもどんどん不幸になっていくかもしれません。
それにはやはり「ほんの少しの勇気」が必要ですね。
まとめ
今回の私の「使用不能」によって、家族のみんなは明らかに前日までとは別人のような行動力を発揮していました。
朝ごはんも昼ごはんもみんなで協力して作り、一番下の3歳児までぐずることなくいい子にしていました・・・。
ああ、心が痛い・・・。
こんなことをやってしまったとき、「私は精神的に不安定だから仕方がないよね」とは決して言わないようにしたいですね。
だって、屁みたいなプライドを捨てて、勇気を出して自分の思いを言葉にすればいいだけですから。
もしかしたら、コミュニケーション障害や発達障害と言われている人たちの中には、この2つに関しての問題を解消することで自由に自分らしく生きられる人がたくさん含まれているのかもしれませんね。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。