ー本記事は2022年9月10日に公開済みですー
数ヶ月前、私はTwitterやInstagramで『そうご市』というお金を使わない循環の提案についてつぶやきました。
我ながら的を得ているネーミングやなと気に入っていたのですが、蓋を開けてみたら・・・
いやいやしっかりお金で回そうとしてるやん!
てなってますなぁ、スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
前回の記事、そうご市の初おろし記事、いやーどんだけドキドキして「公開」ボタンをタップしたことか。
久しぶりの投稿のくせにちょっと変化球すぎて読者の方がどう受け取ればいいのか戸惑われそうだなという思いがありました。
それでも今これを投稿するのがいい、という得体の知れない確信を拭うことができず、えいやっと。
そこで今回以降は、そのあまりにも唐突すぎた変化球記事をちょっとずつブラッシュアップしていこうと思います。
みなさんが思っているほどけったいな市ではないことを祈って…。
『そうご市』ってお金不要の物々交換じゃなかったっけ?
そう、数ヶ月前はお金でやりとりするという当たり前の社会のルールから少しずつ離れていけたらいいなと思っていました。
同じ考えの人も少なくないと思います。
この世界の構図がだいたい見えてきたとき、人はおおむねそういう結論に至るのではないでしょうか。
実際、私の投げかけに対して返ってきたコメントでも
「そんなこと、私も思ってました!」
「昔みたいにちょっと余ったから〜って分け合うのいいですよね!」
「やってみたいです!やってみましょう!」
というものが結構ありました。
よし、ちょっとずつでも実行していこう!その決意は本物だったと思うんです…。
お金に対して変なブロックがあるとしたらそれは逃げていても変わらない
本当にお金を介さなくても衣・食・住が整って日々を楽しく暮らせるなら、それはストレスがない夢のような生き方ですよね。
でも、それと“お金を使いたくない”ということは全く別のことだと気づいたのです。
結局、私の中にある『お金に対する恐れ』みたいなものから目を逸らしていては変わらないんですよね。
その恐れがどういうところから来ているかについては後述しますが、原因である物質(お金)を遠ざけるだけでは根本的な解放は得られません。
なので、やっぱり私の内側にも立派な泥のような目を覆いたい観念があったということですね。
『お金がある』という状態がよくわからないから『お金を使わない』ように生きる癖がつく
昨日見たある人の文章、それは何気なく行き当たった音楽関連のページだったのですが、
「どうしても欲しいと思った音楽雑誌がそれも古本であったんだけど、当時高校生の私はお金がなかった…。たった2,000円前後のお金がなかったばっかりに購入できなかった。」
というような内容でした。
これはリアルに「お金がない」状態ですよね。
娯楽費としてお小遣いで買うべきものだけど、そのお小遣いを何か他のものに使ったのか、そもそも与えられていなかったのか定かではないですが、とにかくこの時この方はお金がなく欲しい雑誌が買えなかった。
これを読んで私は「あーそうか!」と、いまさら(齢45を迎えようとしているイマサラ)
私にはお金があるよな〜
リッチという意味ではないです
とアホみたいに腑に落ちたんです。
親のせいにするわけじゃないけど、小さい頃から何かにつけて「お金がないから」というセリフを聞いて育った私にとって、“お金がない”がデフォルトみたいになっていたのかもしれませんね。
そしてそれに反発するように、自分でお金を稼ぐようになってからは「お金がある」という状況を死守しながら、欲しいものは我慢せず買わなきゃという惨めな使命感がムクムクと育っていった気がします。
しかし、そんな風に欲しいものが買える状態になっても、やっぱり拭えない泥はあるんですね。
買ったものに対しての感情よりも、ただの数字である金額に対する感情の方が勝るんです。
そう「私にはお金がない」というベースが残っている限り、お金がないのにこんなものを買ってしまったとか、こんなに使ってしまったからこれだけのお金しか残ってない、というひもじい感情が消えないんです。
何が言いたいかというと、お金を使うということがお金がなくなるということに常にリンクしている状態がずっと続いていたんですね。
だから、無意識のうちに無駄なお金を使わないように必要以上に財布の紐をギューーーーーっと締めながら生きてきたような気がしたのです。
状況は違えど先ほどの買えない高校生と同じ状態なんです。
物質のやり取りでない場合にはお金は特に便利な意思表示チケットになり得る
いやいやそんなん当たり前やろ、と吐き捨てたくなりましたか?
そうなんです、あったりまえなんですよね。
お金を使えばお金は減る、入ってくるお金がないとそれはどんどんなくなっていき、いつかはゼロもしくはマイナスにだってなる。
でもね、それは数字の動きだけなんですよね。
例えば1,000円のりんごを買ったとして、それは1,000円というお金がなくなった、だけ。
その周りにうごめく豊かさやありがたみは確実に増えていると思うのです。
その目に見えないものが溜まっていって、いつかまた欲しいものへと変換されることだってあり得るのです。
きっかけは1,000円というお金で流通した物質だけど、そのりんごという豊かさは1,000円というチケットがあってこそ手に入れることができるのです。
現代社会の流通において金額が設定されていないものって、やっぱりちょっと危うい側面もあるなと思います。
もちろん、だからこそお金ではない他の価値で回して現代社会の循環から離れようとしていたのかもしれませんが、お金の数で表せる一目瞭然のチケット、これはこれで便利なんですよね。他の価値って言われてもってところもあるしね。
特に、今までそんな風に頑ななお金のブロックがかかってしまっていた私の場合、お金で意思表示するやりとり、また、その循環方法を一度しっかり体得しておくことも必要なのかなと思いました。
もしもそれを、数ヶ月前の鼻息荒い私のように「お金じゃないもの」でやろうとするとどうなるか・・・
きっといつもの楽しいランチ会、になって終わるでしょうね…。
『そうご市』を主催する側の私と参加する側の方たちの境目
お金と時間、あなたはどちらを豊富に手に入れたいですか?
これは観念の違いで大きく選択の分かれるところかもしれませんね。
まあ、どちらにしても簡単に手に入るものではないことは確かです。
だから余計にみんなが欲しがるものでもありますね。
では、2,000円という意思表示チケットで、
今ある悩みのほとんどが消えるかもしれない
としたら?
わお!ぶち込んでくるねー!
ただの楽しいランチ会から何が起こるかわからないランチ会への昇華誘導
さてここからは、そうご市の展開についても含め、参加してみたい気がしている人が参加決意を表明するに至るまでになるように、分かりやすく書いていきたいと思います。書いてる本人が一番着地点見えてない気もしますが。
前回の記事でも書いたように、私の周りではちゃんと世界の構造を見抜いている人たちがたくさんになってきました。
で、外側への毒出しがわかりやすいほどに激しい時期もありました。
私自身がその空気を求めていたから当然ですが、何も考えず言われるがまま言われる愚策をきっちり守っている人たちとは話す機会がほぼなかった気がします。
最初は、知っている者たちで語り合う興奮がたまらず、またこの場にいれば子どもたちも自由に自分らしく振る舞える、と思っていました。
でもね、そんな大人が振りまく正義ってね、子どもにとってはやっぱり毒なんですよね。
だって、否定の嵐、文句の嵐、自分凄い発言の嵐・・・刃は隠しきれません。
そしてその刃が私自身にもグサッと刺さった瞬間もあったりして、ようやく冷静になれた気がします。
子どもたちもだんだん集まりに行く意味を自分なりに考え始めたみたいで、「それなら私は行かない」という言葉も増えていきました。
いかがですか?
これは絶対見過ごしてはいけないサインですよ。
だから思ったんです。
子どもたちが居心地の良さを実感できる場、それはこころがいい感じに毒出し出来た大人たちが適度に見守る空間ではないかと。
まずは「もうこれはコントやから」というくらいに客観視してみる
この社会を生き抜く智慧や知識が豊富で実践体験もあり、世界の本当の裏システムも知り尽くしている大人。
なんて最高のメンターでしょう!
しかし、そこにはこの絶対条件が欠かせないですね。
「自分を信じきっているかどうか」
何があってもいつも「自分」に戻れる、「自分」を最高にリスペクトしている、だからこそ「他者」も大事に思える。
家の中で育児や家事を回しているお母さんやお父さんならわかるのではないでしょうか。
毎日家事育児をうまく回していくにあたって、そういう土台があるとすごくうまくいくってこと。
何かにつけ「なんでやってくれないの!」「こんなにもやってるのに!」「ほらもっとこうしてああして!」って口に出したり心で叫んだりしまくっていました、私も。
だけど、実はそんな時にやってみる価値があることがあって、それをやると土台がちゃんと整ってくるんですよね。
「これコントやん!」
ってね、いちいち言ってみるんですよ。そうすると一気に楽に客観視できると思いませんか?
ってことをランチ会なんかで言っても帰ってからやってみますか?
本気で腰を据えてそれを継続しようと思えますか?
でも悶々とした日常をなんとかしたい!?
いや、それもうコントやから〜♪
本気でやってみたい、そんな意思表示をわかりやすく提示してもらえる方が、私としても「おっしゃ!がっぷり四つでいこ!」ってなりますね。
もうひとつの私の固定観念をぶち破るチャンスでもある
私は今までにも、人を集めて座談会的なものを数回ですが実施してきました。
ありがたいことに、一応私に届く声としては「参加してよかった」「またやってほしい」という嬉しいものばかり。そりゃね、私本人に届くものですからね、けなすような事は言いませんよね…。
開催するにあたって、いただく金額の大小に関わらず毎回結構綿密に内容を作り込むのが今までの私のプライドみたいなものでした。好きだしね、そういうの。
失敗したくない、のもありますが、それよりは「せっかく来ていただけるんだから想像をちょっとでも超えるものを提供したい」という思いが強くあります。
だけど、これって、ほら、もうわかるでしょ?
自分のこと信じ切れてへんやん!
と突っ込めた方、そうご市に来ないでくだーい笑
だから、今回のこの市では、ある程度の骨組みと私自身がやりたいことは別として、ほぼノープランでいきたいと思ったのです。
4人の参加者+私、まあ皆さんそれなりに腹に一物を抱えて集まって来られると思うのですが、そんな5人で繰り広げる見た目超地味だけどあり得ないくらいのスペクタクル、ここに必要なのは・・・
その場に起こる共振
それに尽きるのではないでしょうか。
最後に:さてこれで何人の方が参加表明するに至るのでしょうか
私事ですが、この世の何もかもが白々しいアホらしいなどっかいきたいなと思っていた頃に、バツンと世界をひっくり返してくれたものが2つあります。
ひとつはお笑いです。
かっこよくても可愛くても面白くない人には魅力を感じない、というきらいのある関西人に囲まれて育ったゆえ、やっぱり面白いことを言って笑かしてくれる友達や芸人に出会ったことはラッキーでしたね。
退屈な高校生活もそんな人たちのおかげで笑い転げる瞬間がたくさんありました。
もう一つは音楽ですね。
夢中になれるアーティストができたおかげでライブの楽しさやイマココの大切さ、音と振動と身体と精神、全部がバイブレーションでブワッと高鳴る感覚、こんなに楽しいことがあったという嬉しさ、それは今でも私の生きる力になっています。
どっちも他人がいないと成立しないってことに今気づきましたが…。
それも今ではいい距離感を保ちハマりすぎるでもなく離れるわけでもなく、楽しめているからいいかな。
今回は私について結構掘ってみましたが、いかがですか?
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忘れた頃に通知がいくと思います♪
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。。