ー本記事は2019年4月30日に公開済みですー
自分が40歳を過ぎるまで、自分の死に方を具体的にイメージすることはほとんどなかったです。
いや、今でも年老いた自分が娘たちに心配されるなんてこと想像できません。
しかし、死が確実に近づいてきているなとは、ちょっと思うようになりました、スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
私の「死」に関する考えがいいようにプラス思考になったのは、何を隠そう「アナスタシア」本の影響が強いです。
しかし、もちろんそんなことは理想論の世界であり現実はとても複雑な世の中ですから、「死」を前向きに捉えてそれをそのまま実現できるということは難しいでしょうね。
では、100歳以上の高齢者が7万人を突破している日本、このうち自力で生きている人はどれくらいいるのでしょうか・・・。
リアルな【高齢者】である親
今40〜50代の人たちの親、それはリアルな「高齢者」と言ってもいいのではないでしょうか。
もちろんまだまだ現役で元気ハツラツな方がほとんどでしょうけれど、70代80代、そろそろいい感じに老いてきていませんか?
そしていよいよ、戦争を知らない世代、戦後教育バリバリの世代、戦後GHQ政策の申し子世代・・・言い過ぎかな、その人たちが「死」と対面していく時代に突入するのです。
高齢者が向き合うのは自分の体ではなく他人であるお医者さま
私は今でも、たまに熱が出たり体調を崩したりしたとき、頭では
「これは体の自然治癒反応やんな」
とわかっているつもりでも、実際に心の中では
「このまま死んでしまうことになったらどうしよ…」
って思うときがあります。
それが、70歳を超えてくるとどうでしょうか。
そんな思いがもっともっとリアルになりますよね。リアルすぎて感傷にひたっていられないくらいでしょう。
そんな反応が出ているだけでも元気がある証拠なのですが、ここで必要以上に心配して、悲観してしまうとどうなるか・・・。
医者に駆け込んで、医者の言う通りにする。
だって、医療費の負担が少ないですから〜。
でも、自分の貴重な生存日数を簡単に赤の他人に任せられますか?
任せるんですね〜、これが。
戦後の高度成長期とともに育った世代というのは、結構簡単に病院に行きませんか?
自分で自分の病気を治す、という意識があまりないように感じるのはなぜでしょう。
それは医療の新しい発展を目の当たりにしながら育ったからではないでしょうか。
戦争に負け、貧困と病が横行した時代の後、それを西洋医学が見事に解決していったように見えたのかもしれませんね。
そんな意識を植え付けられた現在の高齢者は、病院に行けばお医者様が病気を治してくれる、そう思っていてもおかしくありませんね。
何十年と酷使してきた体はガタがきて当然
まず、70年80年と使い込んできたボディ、そら劣化しますよ。
細胞は日々入れ替わっているとはいいますが、それでも20歳の頃に比べてその入れ替わる細胞自体の強度は少しずつ変化しているでしょう。
どんどん寿命が延びていくのは、人間が長生きできる体になっているわけでもなんでもなく、
「死なぬように生かされている」
からですよね。
ネットで見つけた強烈な言葉をちょっとご紹介しますね。
「皆、ただ空を見ている」
「ここには魂はない。魂が旅立とうとしているのに栄養により、体だけ生かされ、死ぬのを阻止された人たちがいるだけだ」
これは、松原惇子さんという方が記されていました。
実際に、意思表示できない胃ろうの高齢者が入居する有料老人ホームを訪れた際に、その光景を見て怖さで足が止まったと言われています。
それはちょっとオーバーなのかもしれませんが、そこにいる人みんなが「生かされている」状態であれば確かに異様ですよね。
普通ならすでに安らかな眠りについているかもしれない人。
普通ならもう体の機能を自力で動かすことができない人。
普通なら食べたり飲んだりする必要もなくなった人。
そんな人たちをなんとか生かしている現場、これは一体何がそうさせるのでしょう・・・。
まさかお金を絞り取っているわけでは・・・
もちろん自分の意思で、まだまだ孫の活躍を見ていたいとか、子供が結婚するまでは死ねないとか、そういうものがあるのであれば延命も必要ですよね。
でも、本人の意思はもうなく、残された家族にその選択を委ねられたとしたら?
「延命を拒否します」
とはっきり断言できる人はそういないでしょう。
そして、延命治療をどうするかの選択を委ねる場合、たいてい本人の意識はすでに朦朧としていることがほとんどだといいます。
それでも、大事な家族がまだ息をしているのだから可能性を捨てることは絶対できない、そう考える方が普通ですよね。
そして、そのままいろんな管を付けられ、栄養をチューブで送り込まれ、病院の一室に何年も寝たきり・・・。
一体いくらかかるのでしょうか。
今は「高額療養費制度」というありがたい制度のおかげで、実際に病院に払うお金はそこまで高額にはならないとしても、入院費や別途もろもろ結構かかりますよね。
しかも、負担は私たちの税金ではなかったですか?
病院側にはちゃんと全額入金されるのでは?
おお、なんという完璧なシステムか!
今40代の自分が【高齢者】になるにあたって
そんな日本で、自分の死に様ってどうなんだろう?
ふと考えることが多くなりました。
リアルですねぇ。
でも、悲観は全くしていません。
むしろ興味深いことですね。不謹慎かもしれませんが…。
宿命というものもある
延命や老衰や、ということの前に、突然死ということもあります。
これはちょっと「悲しみ」が大きいですね。
自分の生き方とは全く関係のないところからの事故などは、残されたものにとってこれ以上ない「悲しみ」が襲いかかることでしょう。
「宿命」なのか、
「不運」なのか、
それはもう神のみぞ知る、と言えるかもしれません。
自分の命だって、
「明日」が必ず来るとは限らない、
ですもんね。
だからこそ、今日という日を精一杯生きることが大事だと言われるのです。
今日喧嘩した相手に「明日謝ればいいや」と思っていても、その明日がこなければ?
思った時に行動することが実に大事か分かるところです。
なかなか難しいですけれど。
これも、怖がってばかりいては本当にその因果を招いてしまうかもしれません。
というか、「怖がる」ということが大きなストレスとなって自分を襲い始めるからです。
なので、明るくいきましょう♪
そういうものがあるかもしれないし、ないかもしれない、くらいに。
自分の【生】を全うしたい
私は、20歳前後のときにちょっとだけ「死んだ方がマシかな」と思ったことがあります。
いやいや、おそらくほぼ全ての人があるでしょう。
若気の至りですよね。
- 恋愛関係でひどい目にあった
- 職場でひどい仕打ちを受けた
- 学校でいじめにあった
- 虐待にあった
- 思うように進学できなかった
- 希望の会社に入れなかった
- 病気が辛い
- 家族関係が良くない
などなど、あげたらきりがないです。
実際に自殺しちゃう人がたくさんいるのですから、きっとみんなが通る道といってもいいのでしょう。
そこから脱却できた人の中には、宗教の教えを知ることで救われたという人も少なくないと思います。
もしくは、
- 本の中の言葉に救われた
- 音楽の力で救われた
- 家族の支えで救われた
- 友達の言葉で救われた
- 恋人の愛で救われた
いろいろあると思います。
そういったことを経験し年を重ねてきた今、やはり自分がここまでこれたのはすごいことだと思うのです。
その命、というか【生】は自分の納得いくかたちで昇華させたいなとか思うのです。
40代でしておくことって?
40代で老後を考えるなんて机上論すぎる?
そう思えますか?
何もしないでどんどん「要介護」になっている人が増えている日本ですが。
65歳を過ぎた家族も言っています、
「まさかこんな状態になるなんて5年ほど前には考えられなかった〜」
5年前、60歳前後・・・、そんなもんなのか・・・。
私も30歳頃には全く同感でした。
「ちょっと足腰は弱るだろうけど、それでもまさか自分が介護されるなんてねぇ」
「介護なんてされるくらいなら安楽死したいわ」
そう思っている人は多いでしょう。
実際、今現在介護を必要としない高齢者の多くはそう考えているそうです。
でもね、考えているだけではダメだと思うのです。
そのためにちゃんと自分で準備なり行動なりをしておくことが、いい死に方をする第一歩ではないでしょうか。
- 治療行為に関する「事前要望書」を用意する(登録が必要)
- 病気というものを悪とせず向き合ってみる
- 体を作っているものである「食」を見直す
- ストレスを溜めないように心がける
- 貯蓄を真剣に考える
- 遺言を定期的に書いておく
いかがですか?
今からでもちょっとずつできることがありますね。
まとめ
40そこそこで何えらそうなことを!
なーんて声が聞こえてきそうですね(笑)
まぁ、私が何を考えようと勝手です。
でも、40歳を迎えたからこそ、考えておくといいことがいっぱいあると思いませんか?
「死」については最近結構オープンに語られるようになっています。
自分で自分の寿命を決めたい、と言っている人もいて、実際実行に移した人もいます。
家族がいようといまいと、あなたの【生】の価値は何も変わらないものです。
でも、家族が一緒になって共倒れしてしまうような【自分の老後】をあなたは望みますか?
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。