ー本記事は2019年1月24日に公開済みですー
毎日毎日きちんと身支度をして、誰よりも早くに家を出て行く長女、しかもまだ8歳の小2です。
これは結構すごいことではないですか?
そんなこと当たり前すぎて考えたこともない人が多数かもしれませんが、
重たいランドセルを背負って、
雪の日も少なくない新潟の冬、
毎日何を履いていけばいいか(靴なのか長靴なのかスノーブーツなのか)その日の朝にならないとわからない状況でも、
なんとか自分で考えて行動しています。
こんなすごいことを毎日やっているんだなぁと、今日改めて思いました、スー(@bacteria_suzu)です。
本日もお越しいただきありがとうございます。
今日、長女は初めて一旦起きたのにまた布団に戻った、いわゆる二度寝をしたのです。
風邪っぽい時とか、機嫌が悪い時とか、そんな時でさえ一旦起きたらそのままリビングに留まるはずなんですが、トイレに行った後、何食わぬ顔で布団の部屋に行ったのです…。
今日も小さな事件が起きましたよ。
そしてまたひとつ、私というアホな大人が”いまさら”気づいたことがあったんです。
過去に1回こんなこと↓↓↓があったのにね…。
「〜してはいけない」という考えが頭にある親
子を持つ親というのは、なかなか子供と同じ目線に下りて話をすることが難しいと、つくづく思います。
自分が子供だったときはそんな大人を軽蔑していたし、自分は絶対そんな大人にならないと固く心に誓ったはずなんですが…。
やはり子供と生活をしていく上では、コミュニティーの中で羽目を外さないように生きていくことの方が楽なんですね。
だから、その常識に沿った生き方みたいなものを、無意識に自分にも子供にも強いてしまうのかもしれません。
自分に禁止していることを子供にも押し付ける
子供の全部を丸ごと受け入れる、ということが出来れば幸せだなぁと思います。
そして、できるだけそうしたいと思っています。
思っているくせに、頭のどこかで「それだけでは育児は成立しないやろ」とも思っているんですね。
- 子供をちゃんと育てないといけない
- ちゃんと躾をしないといけない
- 子供の健康に気をつけなければいけない
- 周りに迷惑をかけてはいけない
- 集団行動は乱してはいけない
- 宿題はやらなければいけない
- 忘れ物をしてはいけない
- 遅刻してはいけない
- ズル休みしてはいけない
- 嘘をついてはいけない
などの、ごく普通の育児論・教育論みたいなものは、持っていて当然と思っていました。
むしろ、うちはまだまだゆるい方で最低限のレベルなんやからせめてこれくらいはきちんとしておかないと、って自分で自分をキュッと締めていた気がします。
そうなると、「これぐらいはやるべき」と思い込んでいるもんだから、ちょっとそこから逸れたり失敗したり、できなかったりした子供がいると、「イラ」っとしますよね。
頭ごなしに叱りつけないようにはしているつもりでも、子供にとっては注意される事自体に違和感があるのです。
「学校行かなくてもいいよ」と言っているのは、子供を解放しているのではなく、子供に学校に行くか行かないかどちらかを選べ、と2択を強要していることだと気付いたのです。
その根底に「ズル休みはあまりいいことではない」という親の本心があるのを子供も見抜いています。
熱もない、病気でもない、でも行きたくない、これはズル休みか…、じゃあママはきっと怒るよな…。
幼い子供を混乱させているのは、他の誰でもなく母親なのです。
自分のお腹から出てきたとはいえ、自分と子供は全く別の人格で、別の生き物です。
たまたま親子という関係になったけれど、親の禁止事項を押し付けられる理由はどこにもありません。
子供の可能性を見抜けない
親が子供にしなくてはいけないたった一つのことは、「子供の創造力を削がない」ことだけです。
別に子供の創造力を伸ばそうなんて大それたことは考えなくてもいいから、せめて、子供自身の内から湧き出る好奇心や、ワクワクした創造の芽を「親」というちっぽけな権力を振りかざして、ポキポキ折るような事はしてはいけない、と思います。
「親」という、何か重たい冠みたいなものを、勝手に背負ってしまっている自分、いませんか?
私が子供のことをお世話しないと誰がするの?
私がしっかりしないと!
私がいろいろ教えたり注意したりしないと…。
私が、私が、私が…。
はーーーしんど。
そらそうですよね。
そんなもの背負っている大人が、子供の心からの叫びをストレートに聞く事は難しいでしょうね。
子供が意を決して「やりたい」といってきたものも
- 自分がそれに興味がないから
- 自分が嫌いなものだから
- 子供一人でできるものじゃないから(自分が手伝わないといけない)
- お金がかかるから
- やりたい理由が”友達がやっているから”だから
- 危険だから
などの受け入れがたい理由があったとしても、まずは否定するのではなく話し合うことが大事ですよね。
なんとなく、我が子に対しては「厳しくしてもいい」という暗黙の了解みたいなものが世間にも自分にもあって、つい自分ルールを執行してしまうところがあったなぁと思います。
本来なら親も子も自由な命のはずなんです。
たまたま親子になれたといってもそれが「奇跡」であることには違いありません。
せっかく、こんな特別な関係でいられるのだから、もっとお互いが自由で楽しくてワクワクした毎日の方がいいですよね。
子供の”SOS”の前に自分の”SOS”にフタをしていました
これこれ↑↑↑こういう人、多いと思いますよ。
これね、一見「うらやましい…」と思われるかもしれませんが、ものすごく危険をはらんでいますよ。
まず、もう親と子の関係が完全に『ザ・上下関係』ですね。
自分の監視がちゃんと行き届いているから子供もおとなしく、言う事を聞いているというだけの話なんです。
親の頭に「押し付けていない育児」というストーリーがあって、その通りにコマである子供を動かしているのです。
8歳にもなると、そのコマとしてちゃんと動けたらママがいい顔するとわかっているんです。
だけど、わかっていてもコマ通りに動けない時があるんです。
その結果、子供はそれまで出来ていたことをしないという拒絶反応を示して、いろいろと大人を困らせることもあるのではないでしょうか。
これは、子供のSOSの前に、大人自身が自分のSOSにフタをして押さえつけているから、変なストーリーに子供を巻き込んでいる結果ですよね。
そんなストーリーは屁でも喰らえです。ほんとに。
お母さん、お父さん、自分がしんどいという事は、そのストーリーに無理があるんですよ。
無理があると子供は本当にちゃんとわからせてくれます。
そして、事件は起きました…。
「学校行かなくてもいいよ」に潜む親の問題
私は常々「行きたくないなら学校は休んでもいい」と言っていました。
もちろんその気持ちは本当だし、ちゃんと子供が自分から行きたくないと気持ちを言ってくれたら受け入れるつもりでいました。
しかし、それは、本当は、過去の自分に言っていたのです…。
自分を肯定したいだけ
私は小1の頃、ほとんど泣きながら登校していました。
あまりその頃の全容は覚えていないのですが、
- 母親に手を引かれ大泣きしながら登校していたシーン
- 学校に行く前によくお腹が痛くなっていたシーン
- 一人で学校まで行く道中、どうしても顔が引きつって痙攣してしまっていたシーン
- 給食が全部食べられなくて苦痛だったシーン
そんな、場面、場面の記憶は鮮明に残っています。
そのことで親に責められたとか、怒られたという事はなかったと思いますが「学校へ行くことが当たり前」という空気はありましたね。
誰も「行きたくなかったら休みな」とは言ってくれませんでした。
だから、今の私は必死にそんな小1の自分を肯定しようとしているんだなぁと思います。
そして、ずっと強く思っていた、自分の子供には同じ思いをさせたくない、という締め付け、これが逆に自分と長女を苦しめていたのかもしれない…。
「行きたくない」
「じゃ、行かなければいい」
ただそれだけに固執して、その本質を見ていなかったのです。
学校を問題にして逃げているだけ
今朝のことです。
長女が二度寝というこれまでにない行動をした時に、私は普通に起こしました。
熱もないし病気でもない、それならば起きて支度をしなさいと。
まぁ、その時点で「学校に行きたくない」とも何も言っていなかったのでそうしましたが、それこそが本質の見逃しですよ。
「行きたくない」と言わない限り、ささいなSOSはスルーする、という愚行ですよ。
娘も考えたんでしょうね、行きたくないと言うだけなら理由を聞かれるだろうし、行かなくてもいいと言いながらグチグチ言われるんだろうな、とか。
ええい、もう1回布団に入ってやれ!
といったところでしょうか。
「学校に行く、行かない」ということだけを問題にして、子供の心の中で起こっている異変に気づけていなかったのです。
布団から出てきた長女は「行きたくない」とは言わず、いつもと変わらない様子で支度をしていました。
ーーーあぁ、待ち合わせ時間に遅れるな…。
そう思ったけど、それは敢えて言いませんでした。
ーーーあぁ、もうアウトやな…。
でも平常心、平常心。多分今ならまだなんとか間に合う。
なんとか靴を履くところまで、いつも通りの様子でした。靴を履くところまでは…。
そして・・・
・・・涙涙涙・・・。
顔を上げた長女の目から、ポロリポロリと涙の粒が流れていました。
私「どうしたん?」(結構強めに…)
長女「・・・」
私「どうした?今ならまだ大丈夫やって!」
長女「遅れて行くのがイヤなの」
ここで、あれ?どうしたらいい?って一瞬迷ったんです。
学校行くのがイヤ、ではなく、待ち合わせに遅れて行くのがイヤか…。
どうしたらいいか?
で、この時の私は「それなら、グズグズしてないで行けばいい」と判断し、ググッと背中を押したのです(気持ちの上でね)。
もうちょっと、もうちょっと余裕というものが私にあれば、ここで、
“これは学校云々の問題じゃない”
ということにすぐフォーカスして対処していたかもしれません。
と、どうして思えなかったのでしょうか。
人は余裕がなくなるとこうなるんですね。
朝はとにかく忙しい、そして余裕がないことが多い私。
この後さらなる悲劇が娘に襲いかかるのです…。
これは完全に人権無視!?
長女の、大切な人としての尊厳、それを浅はかな母親が奪い去ってしまうかもしれない行動。
まさかそれを自分が行使するとは思ってもみませんでした。
不登校なんて怖くない!
なんて言っていたのは過去の自分を肯定するためのポーズだったのかもしれない、とやっと気付いたのは、助手席から降りて涙を流し顔を歪めながら登校する彼女の姿を見た時です…。
ーーー先ほどの続きですーーー
遅れても行ったらいい、と送り出した長女が困惑して帰ってきたのは10分後です。
この後の私は、もう完全に彼女の心の中なんてどうでもいいという風な態度でどんどん追い詰めていきます。今思うと恐怖です。
長女「誰もいなかった…」
私「え?ほんまに?」(疑いの問い)
長女「走って行ったけどいなかった…」
私「うそやん!あんな優しい子たちなのに、行ってまうわけないやん!」
長女「ほんとだよ」
私「そうだとしても、一人では行けないん?」
長女「(頷く)」
私「(軽く舌打ちをして)今回だけだからね!」
長女「(頷く)」
キツイなー。我ながらキツイ。キレてんなー。
そして車を出して、通学路を走りました。
さすがにすぐ追いつくかなと思ったらなかなか友達の集団は見えず、そのまま校舎の近くまで来てしまっていました。
私「もうここで降ろすよ?」
長女「え!?」
私「学校まで行くのは嫌やろ?」
長女「・・・」
私は車を停めました。案外するっと降りた長女。案外スタスタと歩き始めた長女。
そして、私の目の前を、目をこすりながら一切こっちを向かず顔を歪めて横切っていったのです。
あーこれ、あの頃の私や。
あの頃の私が、“そろそろお前気付けよ”って出てきてるわ。
幼いながらも、人として自分の意思を持って生き始めた8歳の少女の、キラキラの人権を踏みにじった瞬間だったのかもしれない…。
ここまでに時間かかりすぎましたが、ようやく自分の問題と向き合ったのです。
自分を肯定したいという裏には、やはりちゃんと学校に行かないことに対する後ろめたさが存分にあったのですね。
観るべきところはただひとつ
では、どうするべきだったのかなぁ、と帰りの車の中でも、幼稚園の送り迎え中にも、家事をしている間にもずっとそればっかりが頭を巡っていました。
そして、もしかしたら、あんな顔では学校でもちゃんと活動できずに帰ってくるかも、という心配もしていました。
観るべきところ、それは彼女のこころですよね。
そして、やるべきだったこと、それは気持ちを受け止めることですよね。
行かせるか行かせないか、にしか焦点が合ってないと、どうしてもそれ以外の展開になったらうまく判断できないと思うんです。
特に時間が迫った中で答えを出すなんて無謀ですよね。
朝なんて誰も余裕がないですから。
だけど、せめて母親の私くらいは彼女の気持ちに寄り添ってやれてたらなぁ、と。
もう二度とあんな顔で学校なんかに行ってほしくない、もちろん学校だけじゃない、あんな顔のまま娘を放り出す母親になりたくない!
そう強く思った今日の事件でした。
まとめ
長かったですね。
でも、どうしても今日のうちにまとめておきたいなと思ったので、途中涙で何度も中断しながらなんとか事件の一部始終を書いてみました。
もちろんこれで終わりではないんですがね。
この後、私は自分が変わるためにある提案をしたんです。
それについては次回にまとめたいと思います。
本当に、“朝の忙しい時間”というものがこの世になければ、実は不登校の子どもなんていなくなるんじゃないかと思うくらい、朝はね…。いろんな判断を誤る大人がいると思うんです。
さらに母親も出勤している身だとしたら、それはもう子供が自分を押さえ込むしかないと思うんです。
働く母親がどうこうではなく、仕事に遅れて出勤するのがダメという風潮とか、時間に縛られることほど、人にストレスを与えることってないのかもしれない、そう思うんです。
では、私がした提案とは一体なんでしょうか?それはきっと、いろんな親子がやって損はないことなんじゃないかなと思います。
次回お楽しみに〜♪
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。